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真面目だけど少しやんちゃだった教員時代の自信と挫折~勇気(^_-)-☆

真面目だけど少しやんちゃだった教員時代の自信と挫折~勇気(^_-)-☆

5/7のブログで、僕の二十歳過ぎたくらいまでの人生を綴りました。その後どうなったのか「続きが読みたい」のリクエストに応えて。ここに僕の人生part2を綴ってみます。ここまでの話がわからない方は5/7のブログを読んでいただければちょっと面白いかもです。

オリンピックの夢を叶えることが出来なかった僕は、これから先どう生きていこうか悩んだ末に教師の道を選びました。教員免許は幼稚園・小学校・中学校・高校までの資格を全て取得していたので、「ほんじゃあ教師でもやってみっか~」くらいの気持ちで就いた初めての仕事でした。

24歳の時に鹿児島県の教員採用試験に受かって、初任地として勤務したのが、垂水市立水之上小学校でした。垂水市は鹿児島県の大隅半島の桜島側に位置した漁業&農業中心の小さな市で、その市の郊外に水之上小学校はありました。全校児童100名ほどの小規模校でした。

赴任したての僕は、何もかもが新鮮に感じました。何よりも子供たちがめちゃ純粋だったし、保護者の方々や地域の住民の方々も皆さんが温かくて。

僕ら教師を「水之上小学校(地域の学校)の先生」として本当に心底信頼して見守って協力してくれました。飲み会にはしょっちゅう呼び出されて…当時焼酎大好き
だった僕は、よく保護者の家に呼ばれて焼酎をゴチになっていましたね(;^ω^)

お陰様で、僕は調子に乗って若さと体力を持ち味に子供達を引っ張っていった記憶があります。学習、校内行事は勿論、校区の行事や保護者との交流にも積極的に参加して初任校勤務既定の3年間は充実して過ぎていきました。その当時の学校でのエピソードには面白いものが山ほどありますが、ここで書くには長くなりすぎるので、またの機会にということでカットですm(_ _)m

教師として働き始めたばかりの僕は、迷いながらも先輩先生に学びつつ試行錯誤して3年目にはそこそこ大きな県レベルの研究授業も任せてもらったり、主任等の役職も学校内外で経験しました。

その水之上小2年目の秋のこと…鹿児島市で開催された鹿児島県体操秋季選手権という大会で、僕が担任していた当時4年生の子供たちが、小学校の部で団体総合優勝と個人総合優勝してしまったから…その時は学校を上げて地域を上げてもの凄く喜んでいただきました。で、僕自身もまだ体操の国体選手でもあったので同選手権に出場して「成年の部」で個人総合優勝しちゃいました。師弟優勝です。子供達は自信をつけて「将来は体操選手になりたい」などの夢を語り始めたのでした。

ただ、盛り上がるのはいいんだけど…公立学校の教員は転勤族で、鹿児島県の条例では初任地を3年経験した後には県内の別地区に異動するのが通例でした。だから僕は「異動したらまた何もかもが0からやり直しなんだ」とちょっと複雑な気持ちでした。

課外のボランティア活動として子供達に体操を教えるのはいいんだけど、それって何のため? その子達の将来まで体操選手として面倒みれるの? 

僕の中に葛藤が生まれ始めてきていました。本職は教師。教科と学校生活を共に学ぶ教師なんだと自分に言い聞かせながらも、何か自分の進む方向が明確にならないまま、時が流れていきました。

そして3年目の春、異動の発表の日です。 職員室で校長先生が発表した通達に職員室が騒めいたのは…僕の異動先を告げられたときでした。どこ?

「垂水小学校」同一市内異動。垂水市の中心校です。県内で1件の特例だったので超びっくりしました(。´・ω・)?

まあでも「この垂水に必要」とされたと解釈すれば光栄な話だし、前向きに捉えて…この異動を機に、垂水小学校では、更に一段とギアを上げて垂水小学校の教育に全力で取り組みました。

小学校では、着任して子供たちと初めて対面する「新任式」という行事があります。全校児童900名ほどの大規模校で、子供たちを前に新任の先生達が横一列にずらりと並んで校長先生が一人ひとり紹介してくださいます。

順番が来て、朝礼台に上がって、一通りの挨拶を終えた僕は、スーツ姿にネクタイをしたそのまんま「ピョ~ン」と宙返りをして着地しました。

そのシーン、どうなったと思いますか? 一瞬の間をおいて、大歓声が沸き起こりました。全校児童さん達が目を丸くして超おったまげていました。おそらく先生方の中には「こいつ生意気なやっちゃ。ええ格好しやがって」と感じた先生もいたと思います💦

僕は子供たちに夢と希望を与える教育を目指していました。垂水小学校では最初から6年生を担任したので、学校では全校を引っ張る馬車馬のごとく突っ張しっていました。就任1年目で6年担任ほか学校の主要な役職に就いた僕は、調子こいていて、今思えば、よっぽどいい気な(生意気な)教師でした。

今の僕が当時の重光教諭に逢ったなら、張り倒してやりたいくらいです…生意気で。 それでも若気の至りというか、誰にも止められないくらいパワー全開だったんです(。´・ω・) 

他の先生方には内緒だったんだけど…夜の街中で、地元のヤクザまがいの若い衆と危うく絡みそうになった場面が2回ほどありました。喧嘩には自信があったので、たぶんそういうのを呼び込むような雰囲気が僕の中にあったのかも知れません( ;∀;) 

1回目は小野田剛君のお父さんに、2回目は内田美和さんのお父さんが間に入ってくれて危機一髪で難を逃れました。あとで考えたらヤバい話です💦

それでも子供達は良くも悪くも僕と仲良く付き合ってくれて、僕はとっても幸せな4年間をこの垂水小学校で過ごすことが出来ました。卒業式なんかは何度やっても涙・涙です。子供達の宿題や日記には毎日目を通して赤ペンで交換日記みたいに会話していました。子供達と過ごしたたくさんの良き思い出は、今でも大切に僕の心の中にしまってあります。

当時の子供達とは、30年以上経った今でも交流が続いているし、逗子を訪ねてきてくれる教え子さんもいてくれてます。なんて幸せなんでしょう♥ 有難う!

そんな超ハッスル教師だった僕が、垂水小に赴任して4年目の秋…突然、「心身症」みたいな心の疾患?に陥ったのです。本気で「死にたい」と思いました。人生初でした。 

もしその時、精神科医を受診していたら「うつ病」とか診断されていたかも知れません。

その頃の僕は、若いながらも校内や地区内で重要な役職をいくつか与えられていて、担任も6年生でしたし研究授業も県レベルのものをいくつもこなす超過密スケジュールの毎日でした。その上で、放課後には自ら立ち上げた体操部も指導していましたし。体操の県大会では4年連続優勝しました。結婚して子供も2人産まれていて、家族も大事、仕事は超ハード。身体と心が自分自身のキャパを超えて悲鳴をあげたんですね。パンクしました(>_<)

僕は身体に異常を覚えるものの、そんな状況でも仕事は休まずに大きな学校行事等もなんとか無難にこなしていきました。精神科医に診てもらうのは躊躇っていて、東京で内科医を開業していた姉に相談して…結果「退職」という結談を下しました。

「辞める」決断をしてからは、少しずつ気持ちが楽になってきました。 その頃の僕は、子供達に毎日のように「ごめんね。先生がどうしょうもなくて」みたいな弱音ばっかり吐いてました。 鬱っぽいと人は自分を蔑むんですね。 強がっていたけどホントは弱い人間だったんだとつくづく思いました。

退職した春…4月には次の職場となる神奈川県の二宮郁美幼稚園に勤務しています。3月までの激務から逃れて、新たな気分で新天地でスタートを切った僕は、職場・ポジションを変えたことで、心身ともにまた元気になってきました。 受け入れてくれた育美幼稚園には本当に感謝しかありません🥰

ここから先のストーリーもいろんなことがあって、超面白いのですが…長くなるので一旦打ち切りますねm(_ _)m 

逗子で「整体」をやっている今、当院は教職のクライエントさん達も多いので、学校現場の話とかもよく出ます。今の僕は人生経験も豊富になって傍から今の先生達に助言みたいなことを話したりもします。学校現場は今も昔もそう大きな変革はなさそうですが、子供達のために皆さん一生懸命頑張ってくださっている先生方に感謝ですm(_ _)m 僕みたいに負けないで頑張って欲しいと願っています。

*このブログの続きは、10/22のブログ「僕の人生part3」で公開してあります。

写真は体操選手権優勝の記事と、子供達と夏の早朝にクワガタを採りに行った帰りの記念撮影です。

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